三浦綾子・三浦光世の短歌  ―― 精読「アララギ」土屋文明選  田中綾

三浦綾子・三浦光世の短歌
―― 精読「アララギ」土屋文明選

はじめに

近年、戦中~一九六○年代の「アララギ」を研究資料に活用している。きっかけは、二○一三年夏、北海道旭川市にある三浦綾子記念文学館から、「アララギ」時代の三浦綾子の短歌について講演を依頼されたことだった。
不勉強なテーマであり、当初は戸惑ったが、ありがたいことに、私はある方から数年分の「アララギ」を譲り受けていた。とはいえ、紙質の悪い戦時・戦後期の誌面でもあり、めくるたびに破損しやしないかと、ハラハラ。けれどもそのおかげで、『氷点』での作家デビュー前、結核療養中の三浦綾子短歌をじかに目にする機会に恵まれた。
三浦綾子の生年は、一九二二年。同年生まれの女性歌人には、河野愛子(~八九年)、そして、乳がんで早世した中城ふみ子(~五四年)もいる。三人とも、闘病中に〈短歌〉という詩型に思いを託していたことは、偶然とはいえ、短歌史上でも運命的な事実のように感じている。

歌集・全集未収録短歌八首の発見

三浦(旧姓堀田)綾子の「アララギ」投稿期間は、一九四九年から六一年までである。それらの短歌は、三浦光世との合同歌集『共に歩めば』(聖燈社、一九七三年)や、『三浦綾子全集』第一七巻(主婦の友社、一九九二年)にほぼすべてが収録されている。
また近年、活水女子大学教授・上出恵子氏の綿密な調査によって、「旭川アララギ会々報」(「アララギ」会員の地方会誌)発表の短歌も明らかにされた。堀田綾子=三浦綾子短歌の全体像が、活字化されてきたのである。
綾子を短歌創作にいざなったのは、幼なじみであり、結核療養者の会で再会した前川正(ただし)(一九二○~五四年)である。恋心を確かめ合った直後に夭折した前川正への想いは、綾子の自伝的小説『道ありき』や、前川正との書簡集『生命に刻まれし愛のかたみ』に詳しい。
北大医学部学生で、「アララギ」会員でもあった前川正は、みずからガリ切りをして「旭川アララギ会々報」等を発行していた。先行き不明の病床生活で自暴自棄にさえなっていた綾子に、前川正は、少しでも心の拠り所を、と会費を肩代わりして「アララギ」に入会させたのだった。
さて、旭川での短歌活動は、先述の上出恵子氏によって明らかにされていたが、意外にも、「アララギ」本誌についての詳細な調査はなされていなかった。
当時の「アララギ」誌面は、巻頭「其一」欄では、近藤芳美や高安國世らが新たな抒情歌の構築を試みており、巻末「其三」欄では、伊藤保、津田治子、秩父明水らハンセン病療養者の歌が技術的にも研ぎ澄まされ、掲載歌数も月ごとに増えてゆくさまが特徴的である。「アララギ」の歴史においては第四期にあたるが、実に生き生きとした豊饒な誌面であり、読みながら、感銘を受けてしまった。そこに、のちの作家三浦綾子の〈萌芽〉も見受けられたのである。
この好機に、と北海学園大学人文学部の社会人学生・池田和利(かずと)さんにデータベース化と協力を依頼し、「アララギ」初出と歌集とを詳細に調査した結果、以下の、歌集・全集未収録八首の発見に至ったのだった(【注】)。

〈歌集・全集未収録歌八首〉
※歌番号は便宜上のものであり、漢字は現代の表記に変更。

「アララギ」一九五一年六月号 其二 土屋文明選
1・牛乳配達をして育ちたる吾なるに「お嬢さんね」と言
ふ友があり       旭川 堀田綾子(以下同)

「アララギ」一九五八年六月号 其三
2・早く死にたしとふ口癖は同じにて不倖せな姉は四十八
歳となりぬ

「アララギ」一九五八年七月号 其二 土屋文明選
3・癒えぬまま果つるか癒えて孤独なる老いに耐へるか吾
の未来は
4・人間は日々に老い行く者とある化粧品の記事を読み返
しゐつ

「アララギ」一九六○年六月号 其三
5・雪の上に雨降る街へ仕上りし夫の着物を取りに出で来

6・屋根裏の病室に夫を一人置き雪どけの道を帰り来りぬ
7・今日よりは吾一人暮さねばならぬ吾が家の前に来りて
佇みて居り
8・この家の中にもう一組の夫と吾がゐる様な気がして暫
し立ち居り           旭川 三浦綾子
(※一九五九年一○月号から、結婚後の「三浦」姓)

これら八首を加えて、「アララギ」掲載歌は全一七八首であると確認できた。
それにしても、なぜ、これら八首が歌集・全集に収録されなかったのだろうか。本誌面をじかに目にしたうえで、私見を述べておきたい。
歌番号「1」「2」については、おそらく、プライベートな内容からの配慮であったと推察される。
「3」~「8」については、二点の原因が考えられる。まず一点、「3」「4」の、誌面上のレイアウトの関係である。この二首は、「土屋文明選」の巻頭頁に掲載されたが、二段組の上段左端に「旭川 堀田綾子」と氏名のみ掲げられ、作品は、下段右端に掲載という、いわゆる〈泣き別れ〉状態であったのである。私自身、うっかり読み落としていたのだが、協力者の池田さんが鋭くチェックしてくれたことで〈発見〉された二首である。
原因の二点目としては、「3」「4」、「5」~「8」は、同じ号の他の選歌欄にも作品が掲載されており、どちらかを、綾子本人が見逃していた可能性がある。
先に少しふれたが、当時の「アララギ」誌面は、冒頭が「其一」=旧選者クラスとベテラン二、三○人の短歌欄であり、一人一○首近く発表することができた。続いて、厳しさで知られた「其二 土屋文明選」があり、その後に、五味保義を中心とした編集部による選歌欄「其三」があった。「其三」は、「其二」とは重複なく、全国の会員六○人近くの各六首~一首が掲載され、堀田(三浦)綾子も、一九五五年からここにも採られるようになっていた。
具体的に見ると、「土屋文明選」の「3」「4」掲載号の「其三」に、綾子の〈酢の匂ふ飯をあふぎつつ今宵わが告ぐべき事を思ひぬ〉〈日の沈む位置の移りを記すのみかかる平凡なるわが日記〉二首が掲載されていた。
「5」~「8」は「其三」掲載歌であり、やはり同号の「土屋文明選」に〈金持に金貸し貧乏人に金貸さぬこんな世の仕組みさへ知らず生き来ぬ〉が掲載されており、投稿した本人も、こちらのみ見ていた可能性がある。
また、一首一首突き合わせてみると、全集一七巻(前出)所収の『共に歩めば』には、以下の「昭和三十六年」作品三首が未収録であることもわかった。

椎茸も芋も大根も裏山より今採り来しを今食ぶるなり
石多き畑に人は苦しめど四囲の官林豊に茂りゐき
林間鉄道のありたる道と夫に聞き明るき林に入りて行
くなり

これに関する事情は把握できていないが、一首目「椎茸も~」は、「アララギ」一九六一年一月号土屋文明選に掲載された歌である。

「アララギ」土屋文明選という場

土屋文明(一八九○~一九九○年)が「アララギ」編集・発行人となったのは、昭和初期、一九三○年のことである。戦禍のため、一九四四年一二月号で発行を断念、けれども戦後すぐ、わずか一六頁の一九四五年九月号(復刊第一号)の発行に漕ぎつけた。以降、すでに話題としてきた「其二 土屋文明選」欄が誕生したのだった。
全国の会員が、五首(のちに三首)以内を葉書に書いて投じ、土屋文明の厳しい選歌眼にかなった作品が、三首、二首、最低一首の掲載。五○~六○年頃の誌面で数えると、掲載歌は少ない月でも五五○首余、多い月では千首を超えており、平均でも八○○~九○○首と、大量であった。
その背景には、それまで戦争で抑圧されていた生活者の、表現意欲の復活と、「アララギ」地方組織の順調な基盤整備も関係していたのだろう。
現在の結社誌でも、選者の評価軸をもとに歌数と掲載順が決まることが少なくないが、土屋文明選でも、当初はそれが基本であった。のち、会員数の大幅な増加により、居住地別の掲載となったが、「其二」巻頭頁など複数首の掲載は、やはり土屋文明が厳選した作品であった。
そんな中、堀田(三浦)綾子の初入選歌は、巻頭から三分の一相当の手堅い順位であった。一九五四、五五年ころの前川正追悼歌などは、巻頭にほぼ近い頁に掲載されており、土屋文明から高い評価を受けていたことがわかる。
とはいえ、地方の一会員であった綾子にとって、この欄で深い心の傷を受けたという事実もある――。
のちの自伝的小説『道ありき』四○章に、類想歌をめぐる騒動が詳述されているが、それは実際に、土屋文明による「選歌後記」で展開された出来事であった。

「アララギ」一九五三年十一月号 其二 土屋文明選
札幌(この時期、札幌医科大学附属病院に転院したため)
堀田綾子
ベツドよりずり落ちさうな吾が蒲団を直して帰り給ひ
しが最後となりぬ
京都 坂本兎美
ベツドよりずれゐる吾れの掛け布団を直し給ひき醉の
まぎれか

上の句が類似しているこの二首が、偶然にも同じ号で土屋文明によって選ばれたため、ある会員から、何か先例があるのではと指摘され、土屋文明も、よろしくない傾向だと応じたのである(「アララギ」一九五四年一月号)。けれども、作者双方にとって、それは全くの誤解であった。しかも綾子の場合、病床での受洗を決意させた西村久蔵との最後の面会を詠んだものであり、決定的に重要な歌でもあったのである。
作者双方からの切実な事情説明を受け、土屋文明も、「前言を取消さう」と謝罪をした(「アララギ」同年三月号)が、短歌史としてもこの類想歌騒動は忘れてはならないと感じている。なお、原文は、土屋文明『新作歌入門 アララギ選歌後記』(筑摩書房、一九八九年)に収録されている。

土屋文明による添削

さて、「アララギ」土屋文明選を数年分眺めて気付くのは、投稿された短歌が、土屋文明の添削(五味保義は「選者の赤エンピツの入つた例」と呼称)を経て誌面に活字化された例が少なくない、ということである。もちろん、会員との相互了解のうえであり、たとえば、「アララギ」一九五一年七月号には、作者名を伏せ、原作(投稿歌)と文明に拠る添削後の歌が一七首ずつ併記されている。一例引こう。

(原作)古本高価買ひ受けますとあるガラスに我の如く
ためらふ夕陽
(添削後)古本高価買ひ受けますとあるガラスに我はた
めらふ夕日さしたり

なるほど、四句目で止めるという土屋文明の作歌技術で、原作が、余情ただよう作品へと変化している。
堀田(三浦)綾子の短歌にも、土屋文明の「赤エンピツ」が入ったと思われるものが何首か見られるので、二首、実例を挙げてみたい(傍線部)。

「旭川アララギ会々報」第一号(発行年月日不明だが、これが初出)
夜半に帰りて寝着にも更へず寝る吾をこの頃父母は咎
めずなりぬ
「アララギ」一九五○年二月号 其二 土屋文明選
夜半に帰りて衣服も更へず寝る吾を此頃父母は咎めず
なりぬ
『道ありき』一九六九年刊
夜半に帰りて着物も更へず寝る吾をこの頃父母は咎め
ずなりぬ
歌集『共に歩めば』一九七三年刊 一九四九年の作として
夜半に帰りて衣服も更へず寝る吾をこの頃父母は咎め
ずなりぬ

異同を追うと、「寝着に」→「衣服」→「着物」→「衣服」と改変があり、「衣服」「此頃」表記はおそらく土屋文明に手による添削であろう。

「旭川アララギ月報」第二三号(一九五一年十二月)
五十才の社長夫人に何時もいつもコーヒーを奢られて
ゐるあなたは嫌ひ
「アララギ」一九五二年二月号 其二 土屋文明選
五十歳の社長夫人に何時も何時もコーヒーを奢られて
ゐるあなたは嫌ひ
『道ありき』一九六九年刊
五十歳の社長夫人にいつもいつもコーヒーを奢られて
ゐるあなたは嫌ひ
歌集『共に歩めば』一九七三年刊(一九五一年作として)
五十才の社長夫人に何時もいつもコーヒーを奢られて
ゐるあなたは嫌ひ

「あなた」のモデルは、綾子より七つ年下の学生だったそうだが、土屋文明選では「歳」「何時も何時も」と、漢字遣いに筆が入れられていたことがうかがえる。
厳しい「土屋文明選」に一首掲載されるだけで喜んだ会員もいた一方、自作にこだわる会員もいたようで、「アララギ」一九五九年七月号では、「選歌について質問」として、自作の助詞が二つ削られた作者が、「相当工夫したつもり」でしたが云々と、疑義を呈していた。対して、土屋文明曰く、「作者がさう信ずるならば、私はそれを拒否する何んの理由もありません。御自由に原作に戻してお用ゐ下さい」と、やや素っ気ない回答を寄せていた。
今日でも、添削についてはお互いの信頼関係がひじょうに大切なものであり、土屋文明の選歌欄は、その観点からも興味深い事例として読ませてもらった。
なお、現在、この時期の「アララギ」は復刻版(教育出版センター、一九七五~八四年)で図書館等で目にすることができる。貴重な短歌資料である。

おわりに――三浦光世の短歌

二○一四年一○月三○日、三浦光世氏の訃報が届いた。九○歳。夫であり、三浦綾子記念文学館館長でもあった。
一九五五年、同じキリスト者として病床の綾子を初めて見舞ったその年、三浦光世も、誘われて「アララギ」に入会することとなった。

「アララギ」一九五五年一○月号 其三
瞬間の死とのみ思ひゐし絞首刑に苦しむ時間のあると
聞かされぬ             三浦こうせ
「アララギ」一九五五年一一月号 其二 土屋文明選
とり分けて甘き水蜜桃ひとつ核の中黒く蝕まれゐき
「アララギ」一九五五年一二月号 其二 土屋文明選
恋愛でもしてみよと言ひて帰りゆきぬ保険勧誘に来し
未亡人

入会当初数年、なぜ三浦「こうせ」と記していたのか伺おうと思っていたのだが、残念ながらかなわなかった。ただ、最晩年に、記念館でほがらかに童謡を披露する姿を目にできたことは幸いだった。
綾子は、光世との結婚によって幸福に満たされ、一九六一年以降しだいに作歌から遠ざかっていった。対して、三浦光世はその後も歌を作り続け、歌集『夕風に立つ』(教文館、一九九九年)等も上梓している。
私が三浦光世の歌集でもっとも胸迫ったのは、次の一首である。

大正十二年生活苦をかこつ父の日記胎児吾を堕さむか
と惑ふ言葉あり

「大正十二年」は関東大震災の年。当時、東京在住で、市電の運転士などを勤めた「父」であったが、「生活苦」の不安から、三人目の子宝として授かった「胎児」を堕ろそうと悩んだ一瞬があったのだろう。肺結核にも罹り、北海道に移住した二七年=光世三歳の年に、父は病没。
成人後、何らかの機会に亡き「父の日記」を手にした「吾」の衝撃は、はかりしれない。自分はまさに運命によって生かされてきたのだ――三浦綾子を、看病と口述筆記で支えた光世の原点が、この歌にまざまざと見出せる。
最後になるが、父と同じく光世自身も「日記」をつけていた。この度、初めて公開された「三浦光世日記」(三浦綾子『ごめんなさいといえる』小学館、二○一四年所収)の次の言葉で、本稿を締めくくりたい。綾子の『氷点』執筆の追い込み期、その写し(複写機がない時代ゆえ、筆写)を執りながらの言である。

一九六三年一二月一七日
よくぞ綾子書いたのう。いや~いや~いや~、書かせ
ていただいたのだ。忘れてはならんぞ。

【注】「北海学園大学附属図書館」HPの左下「HOKUGA」をクリック、「三浦綾子」または「田中綾」で検索し、全首ご覧下さい。また、四月には、斎藤茂吉の実兄・守谷富太郎の「アララギ」全掲載歌も紹介予定で、こちらも劇的な歌群です。

※本稿は、「短歌往来」二○一五年四月号(ながらみ書房、二二―二八頁)に寄稿した原稿の転載です。

田中綾(三浦綾子記念文学館館長) 三浦綾子記念文学館 氷点村文庫第1号第1巻「おだまき」 2016(平成28)年12月24日

館長ブログ「綾歌」三浦綾子記念文学館

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