舞台となった塩狩峠 「天塩の国」と「石狩の国」の境  ― 当時は鉄道の難所だった ―  難波真実

「峠」の名は、明治時代に

「塩狩峠」は、実在の地名である。旭川市中心部から北に約30キロ、旧国名〔松浦武四郎原案により、1869(明治2)年に11国86郡が制定された〕の「天塩国」と「石狩国」の境に位置する峠で、現在は上川郡和寒町と比布町の境となっている。このあたりは鬱蒼と木々が生い茂った原始林であり、地質は泥炭。行軍も開拓も相当に苦労したと記録されている。並々ならぬ努力の末、定住の地として変貌を遂げた和寒は1915(大正4)年に剣淵から分村、1923(大正12)年に塩狩温泉が開業し、発展期を迎えた。

峠をあえぎ上った

ここに鉄路が敷かれたのは1899(明治32)年。前年に旭川まで伸びていた鉄路は、名寄を経て稚内までの延伸が計画された。この年、最後の屯田兵が剣淵・士別に入植し、その年に和寒まで鉄道が延伸。上下それぞれ2本程度が運行され、貨物と旅客が行き交った。
ロシアの南下政策に対抗するため北方の守りと北の大地の開拓が進められていたのである。
塩狩峠の線路は勾配がきつく、この当時は補助の機関車を付けての運用が基本だったとされる。1909(明治42)年の事故当日は何らかの事情で補助機なしとなり、悲劇を招いたのではないかと思われる。

〝えぞ〟からのメッセージ

1886(明治19)年、北海道庁が設置され新たな歩みを始めた北海道。しかし作中で「えぞ」と呼ばれたように人々の印象は〝果ての地〟であった。集治監が設置され、開発事業に囚人が使われたことや、「タコ部屋」による強制労働が社会問題だったこともあるのだろう。
小説『塩狩峠』には近代北海道と日本の歩みが色濃く反映されており、国家の成長(強制)と人権の尊重(自由)という大きな命題の萌芽が見られる。
〝果ての地〟からの渾身のメッセージといえるのではないか。

1973年制作 映画「塩狩峠」

監督:中村登 脚本:楠田芳子
出演:中野誠也、佐藤オリエ、新克利、永井智雄、近藤洋介、長谷川哲夫、滝田裕介、岩崎加根子、ほか。

1973年にワールドワイド映画社と松竹が提携し映画化された。
夕張がロケ地に選ばれ、同年3月から撮影がスタート。ロケはその後、札幌や旭川でも行われ、三浦夫妻は旭川ロケを訪れた。出演者たちと記念撮影をしようとした時、綾子は突然列を抜けて一人の女優の背に回り両腕で抱きしめた。「これで少しはあたたかくなったでしょう」といわれ氷点下24度の寒さでふるえていた女優はにっこりして記念撮影に加わった。
映画は「伝道映画」という枠を超えて多くの観客に感動を与え、海外でも話題を呼んだ作品となった。観客動員13万人。その後も多くのキリスト教関係者などによって全国津々浦々で上映され続けた。三浦夫妻も自ら映写機をもって近隣の教会などを回った。

難波真実 三浦綾子記念文学館 特別展『塩狩峠』「一粒の麦 いのちより重い愛の尊さ」 2016(平成28)年7月1日〜10月28日 パネル掲載文章

『塩狩峠』文庫本

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