『塩狩峠』執筆秘話

名作誕生のキッカケは、綾子の謝罪だった?

綾子は1964(昭和39)年6月7日日曜日の午後、旭川六条教会の研修会で長野政雄氏の直属の部下であった藤原栄吉氏と出会った。後日、藤原氏から牧師あてに手紙が来た。「この間の研修会は、まことに不愉快でした。あの婦人は、いったい何者ですか。わたしの述べる意見にいちいち批判を加え、もしくは反対意見を述べました。もはやあの婦人と同席することはご免蒙りたいと思います。」綾子は直ちに牧師に同行してもらって藤原氏の家に謝罪に行った。ひたすら謝りつづけた後、ふと見ると、机の上に原稿の束が。「何をお書きですか?」とおそるおそる尋ねると、「長野政雄さんのことですよ」と、にわかに目を輝かせた。話を聞いた綾子は感動した。このとき、『塩狩峠』の〝芽〟が誕生した(このほかにも説がある)。

自分の人生を書きこむ

長野氏の遺言で手紙や日記帳は焼却されていて小冊子『故長野政雄君の略伝』のほかには記念の絵葉書や六条教会史の短い記録、追悼のことばなどで、資料が少なかったため、長野政雄という実在の人物の人生を事実的な背景としているが、『道ありき』に語られた綾子の実人生体験が投影されている。

モデル・長野政雄には、恋人はいなかった!!

モデルの長野政雄には作中のふじ子のような恋人や婚約者はいなかった。結核と脊椎カリエスで十年以上闘病し、その間に最愛の人の死を経験するふじ子は、自伝小説『道ありき』に書かれた前川正を喪うまでの綾子の人生の反映であり、信夫がふじ子にプロポーズするときの、「あなたが治らなければ一生他の人とは結婚しない」という言葉は三浦光世が堀田(旧姓)綾子に言った言葉とほぼ同じである。このように、物語の根底にはこの二人の愛の尊さへの思いがあるようだ。

永野信夫と長野政雄は、3才ちがい!?

1880(明治13)年名古屋生まれの長野政雄が、永野信夫では1877(明治10年)東京生まれになっている。結果信夫は数え33歳で殉職することになった。33歳は綾子の恋人前川正が死んだ満年齢であり、伝統的にイエスが十字架で死んだとされる年齢である。また、長野政雄の友人中村春雨は年齢を変えて登場し、その小説『無花果』は出版年と筋も改変されている。

口述筆記作品第1号となった

『塩狩峠』の連載がスタートしてしばらくした1966年の夏、小樽のホテルで「わたし、きょうは肩こりがひどいので、わたしのいうとおりに、原稿を書いてみてくれないかしら」と綾子が言った。夫光世は二つ返事で万年筆を握り原稿用紙に向かった。終わると、綾子は「すごく楽だわ。これから、この方式でいきたいわ」と喜んだ。以来、三浦綾子はそのほとんどの作品を口述筆記によって書いていった。光世は同年末営林局を退職して、文字どおり二人三脚の執筆生活が始まった。

三浦綾子記念文学館 特別展『塩狩峠』「一粒の麦 いのちより重い愛の尊さ」 2016(平成28)年7月1日〜10月28日 パネル掲載文章

『塩狩峠』文庫本

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