三浦綾子・晩年の小説『母』を読む ─ にびいろの海に映る夕陽 ─  難波真実

小説『母』

三浦綾子は五十作以上の小説を著しましたが、本作『母』は、最晩年に書いたものです。最後の作品が『銃口』。この両作は彼女の〝遺言〟といってよいでしょう。デビュー作『氷点』から一貫して、人はいかに生きるかということをテーマに書き続けてきた綾子は、最後の二つに平和への思いを真正面からぶつけました。

にびいろの海

セキと多喜二が眺めた海は、何色だったろうと思うことがあります。私には北海道の冬の空とあいまって、独特の鈍色しか浮かびませんが、多喜二には違う色が見えていたような気もします。本作のラストは、
「おや、きれいな夕映だこと。海にも夕映の色がうつって……。」
としめくくられており、多喜二の死から約30年が経った87歳のセキに、夕焼けに染まる海が見えていることを教えてくれます。
「闇があるから光があるんだ」(「出会い」の章)と語る多喜二の眼に、この夕映の海が映っていたことはあったのでしょうか。

執筆のきっかけは、夫

本作は夫・光世から薦められて書いたもので、当初はなかなか取りかかれなかったようです。しかし、取材を進めるにつれて小林多喜二のことと共に母・セキの心に触れ、その苦衷を思い、書き上げました。重たい内容でありながら、次へ次へと読み進ませる力は、セキの語り口調という文体もさることながら、セキが夫・末松とともに子どもたちを愛して、明るい、陽光の降り注ぐような家庭を築いたその土台にあるように感じます。

何気ない日常が愛おしく

「小樽の空」の章で、多喜二たちが学校でのことなど、先を争ってセキに話して聞かせる場面がありますが、そのほほえましい光景につられて私まで笑みがこぼれ、心がじんわりと温かくなります。こんな何気ない日常が幸せで愛おしく、だからこそ、決して奪われてはならない貴いものであることを、セキの声を通して綾子は語りました。

真実な人、真実な愛

三浦綾子は、教師時代に敗戦を迎え、価値観の転換に心が折れて挫折し、生きる望みを失ってさらに病気に遭い、苦悩の時代を長く過ごしました。けれども、真実な人に出会い、真実な愛に支えられて立ち直り、生きることの尊さを見出すことができました。
「なあ母さん、花でも海でも、空でもな、この世のものは、みんな生きたがっている。その生きたがっている者を殺すことは、一番悪いことだ」(「巣立ち」の章)と多喜二は語ります。その多喜二が殺された。この残酷な現実を、私たちはそのままにしておいてよいものでしょうか。

人を愛し尽くした多喜二

綾子は、自身の経験を通して、「人は、人を生かそうとするときにこそ、本当に生きる」ことを繰り返し描きました。家族を愛し、タミちゃんを愛して力を尽くした多喜二は、本当に人として生きた人でした。セキの眼には、悲しみの向こうに見える貴いものが映っていたに違いありません。
「母さん、夜道を、歩きながら考えるって、いいもんだぞ。人間はやっぱり、この二つの足で大地を踏みしめないと、育つものも育たないかも知れんぞ」(「巣立ち」の章)

平和を生み出す命として

「社会のどん底にいる人に、生きる希望を与えたいと小説を書いている」(「出会い」の章)
この多喜二の言葉に、綾子は自身の姿を重ねたのでありましょうし、読む私たち一人ひとりに、「あなたの生きる使命は何か?」と迫り、問うているのではないかと思います。
人を愛し、平和を生み出す一つの命として私たちが歩もうとするとき、夕映に輝く海が大きく美しく広がることでしょう。
ぜひ、本作『母』を手にとってみてください。

難波真実 三浦綾子記念文学館 講演配布用資料 2018(平成30)年7月8日

『母』文庫本

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