いま思うと、外から帰ってきた父が、洗面所で、

いま思うと、外から帰ってきた父が、洗面所で、家中にひびくような音を立ててうがいをしていたのは、自分がいままさしくうがいをしているぞという母への誇示と、やりばのない腹ただしさの表れだったのかもしれない。別れた父は、母とくらべて容貌は劣るが至極おっとりとした女と再婚した。親戚の女たちが、
「こんなきれいな、働き者の奥さんの、どこが悪くて離婚したのだろう」
といっていたのを、恵理子は忘れてはいない。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 一」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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