『氷点』と自殺 課題図書『氷点』  金光詩浦

「死は解決だろうか―」
これは、この本の主要人物である辻口啓造の感じたことであった。その後には、「死は解決ではなく、問題提起といえるかもしれない。特に自殺はそういうことになる」と続く。この言葉に感銘を受け、私は「自殺」について考えようと思った。

今日、世間では自殺のニュースはよく見かけるし、線路に飛び込んで人身事故を起こす人も少なくない。今日も、きっと自ら命を絶った人がいるだろう。私たちにとって、自殺が身近なものになっていないだろうか。作者は辻口啓造を通して、次のようなことも述べている。「命をかけて問題提起をしたところで、周囲の人々も、社会もそれに答えることは少ないのだ」と。
まず、前提として、作者はクリスチャンであり、この本の中にはキリスト教の思想が多く見られる。それを踏まえ、この本の大きなテーマは「原罪」であるということを押さえておきたい。「原罪」とは、キリスト教において、最初の人間であるアダムとイブが神に背いて犯した罪のことである。そして、人間の歴史はここから始まっており、また、ふたりが罪を犯し、死のない楽園から追放されたために、人間は死ぬことを運命とせざるを得なくなった。つまりは、罪の結果が死であり、「原罪」を背負う人間は神から命を授かり、そして己の人生の中で救いと赦しのために生きていかなければならないということである。その上で、キリスト教においては、「自殺」は神から授かった命を自らの手で殺す行為であり、神への冒涜であるとされている。
この本の中には、自殺した、もしくはしようとした人が複数名登場する。なぜ作者は、禁忌とされる「自殺」を多数描いたのだろうか。それは、自分が「原罪」を背負う罪人であることを意識して生きていくことの難しさを伝えるためには、「自殺」は切っても切れないものであったからだと私は思う。

ここからは、自殺した、もしくはしようとした登場人物の背景や心情、それに伴う辻口や陽子の気持ちや考え方の変化から、作者の伝えたかった死生観や生き方などを探っていきたい。
この本の中で、最初に自殺したのは辻口啓造の娘を殺した犯人で、後に辻口家の養子として引き取られる陽子の実父である。陽子の父は、少年時代にタコ部屋に入れられ、過酷な労働と生活を強いられてきた。その後、娘が生まれたものの、それと同時に妻が亡くなってしまった。彼の精神はすり減らされ、かなり追い詰められていたと考えられる。その衝動で、偶然出会った辻口の娘を殺してしまう。
一般的に「自殺」は、強い孤立感、自分の存在価値の不明、そして大きな絶望感と喪失感など様々な感情に押しつぶされ、耐えきれずに命を絶ってしまう、とされている。世間では、自殺者のことを「かわいそうだ」と言いながら、「本人にも非がある」と思う人は少なくない。辻口も、「自殺するぐらいなら、ルリ子を殺さなきゃよかったんだ」と言っている。娘を置いて逝ってしまうことを無責任だと感じる人も多いだろう。しかし、彼は自ら望んで命を絶ったのだろうか。本文に「発作的な自殺じゃないかと思いますね」とあるように、未来を考えること、そして今を生きることができなくなってしまったのだろう。妻を失い、他人の子を殺した彼を、責める人はいても生きていてほしいと願う人はいただろうか。たとえ、娘がそれを望んだとしても、果たして彼は生き続けることができただろうか。人の存在価値が、他者からの評価で生まれるものなのだとしたら、それは不可能であるだろう。私たち人間は皆、「原罪」を持つ「罪人」であるはずなのに、人々は「正しい人」を求めようとする。それが、「自殺」という行為に繋がっているのではないか。
次に取り上げるのは、辻口の患者であった正木の死だ。彼の死は、辻口にも陽子にも大きな影響を与えた。辻口は、彼の病気を治すことができた。しかしながら、彼は病気が治ったことによって生きる意味を失ってしまった。社会復帰をしたところで、身寄りもない自分を誰かが必要としてくれることはないのだと彼は感じていた。そして辻口は、彼のそういった気持ちに寄り添うことはできなかった。ただ、彼に寄り添っても、彼を必要とする環境がなければ救うことは不可能であっただろう。辻口は、こうして冒頭のような問いを生んだ。「死は解決だろうか。」自分の存在価値を見失い、死んだところで、社会の中で個人の存在価値を証明してくれる者はいないのだ。自身の存在価値は、生きていなければ手に入れることのできないものなのではないだろうか。
彼の死に陽子は、共感していた。そして私も、共感した。陽子は、彼の死を通して、「ええ、わたしも自分がこの世でかけがえのない存在だということが、よくわからないの。本当はどんな人間だってみんな一人一人かけがえのない存在であるはずなのに、実感としてはよくわからないの。だれかが心から陽子はかけがえのない存在だよといってくれたらわかるかも知れないけれど……。正木さんって方も、誰かに強く愛されていたら、死ななかったと思うの」と言っている。
世の中には、自己啓発本などが多数あり、そこには必ず、「あなたはかけがえのない存在なのです」のような文言が見受けられる。しかし、ここで自分の命が尊いのだ、とすんなり受け入れられる人は自殺などしないだろう。かけがえのない存在であることを事実として認識することはできるが、実感として受け止めることは非常に難しく、これは私たち人間の永遠の課題ではないだろうか。社会が複雑化していく中で、個人の価値は薄れていってしまう。社会のような大きな母体に存在価値を認めてもらえないのなら、家族など小さな共同体に自己の存在価値を問うしかない。しかしながら、それさえも実現が難しくなっているのだ。個人が個人として生きやすくなった現代であるが、個人と個人の関わりはより希薄なものになっているのではないだろうか。

最後には、陽子自身が自殺を図る。陽子は、これまで何も知らず、もらい子であることを悟ってからも、義兄や義母からの愛を信じて生きてきた。それを、自分の存在価値だとみなし、どんなにつらいことが起ころうと、乗り越えてきた。しかし、犯人の子であると知ってからは、憎むべき存在である陽子を、両親は許せるはずもないのにここまで育ててきてくれたこと、そのことを知らずふてぶてしく生きてきた自分のことを許せなくなってしまった。陽子は何もしていないのに、その自分の罪が認められず、自殺を決意する。彼女は死の苦しみをもって、自身の罪を洗い流そうとした。「罪人」の血が流れている自分に生きている価値などないのだと思い詰めた結果である。
彼女は遺書の中で、「ゆるし」を乞うた。私は、「ゆるし」は「存在価値を認める」ことと同義であると考える。しかし、存在価値は生きているからこそ生まれるものだ。作者は、自分の罪を「ゆるす」ことのできなかった彼女を殺さず、生かす道を示した。死をもって解決できないからこそ、陽子が自身の罪を「ゆるす」ことができるように、それが私たち人間のあるべき姿であると示してくれているのではないだろうか。
人は、「正しい人」を目指したがる。「正しい人」と比べ、自分には価値がないと、生きている意味などないと思い詰め、自殺してしまう。しかし、この世の中に「正しい人」などいないのだ。なぜなら、私たちはみな「原罪」をもつ「罪人」であるからだ。それを、「ゆるす」、つまり原罪を背負うものとして生きることを受け入れることが、「自身の存在価値」に繋がっていくのだろう。そして、相手を「ゆるす」こと、相手に「ゆるしてもらう」ことは、生きていく中でしか実現できないのだ。自殺志願者の存在価値を、死ぬ前に証明できるような社会を作っていかなければならない。それは、相手を「ゆるす」ことでのみ可能になるのではないだろうか。
自殺者の増えるこの国で、愛を受け取ることが難しい社会で、生きていくことに意味を感じられなくなる時には、もう一度問おう。「死は解決だろうか」と。

金光詩浦(京都女子高等学校2年) 優秀賞 B 課題図書部門
三浦綾子記念文学館 第21回三浦綾子作文賞 2019(平成31)年

第22回三浦綾子作文賞 募集

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