明智光秀の娘・玉子の“道ありき”  長友あゆみ

「今度は三浦さんに、ぜひ細川ガラシャの伝記を書いてほしいのです。いわばガラシャの『道ありき』を書いてください。」
綾子は自伝『道ありき』などでお世話になった、当時の主婦の友社の社長石川数雄氏からこのような言葉を受けました。初めての歴史小説でなかなか手がつきませんでしたが、石川氏の励ましもあり、1972年夏頃から執筆に取り掛かり、大阪・京都・若狭地方・熊本など取材に出向きました。こうして三浦綾子初の歴史小説『細川ガラシャ夫人』は、1973年1月から1975年5月まで主婦の友に連載され、1975年主婦の友社から刊行されました。デビュー作『氷点』を執筆して10年後のことです。
ガラシャとは「恩寵」「grace」という意味の洗礼名で、もとの名を玉子といいます。玉子は、かの明智光秀の娘でした。
明智光秀は「三日天下」と言われ、歴史の教科書でもわずか数行で終わらされてしまう人物ですが、綾子は「光秀はなぜ本能寺の変を起こすに至ったのか」に注目し、光秀がどのような人物であったかを丁寧に描き、その娘である玉子がどのような家庭で育ったのかを細やかに記しています。膨大な資料を調べていくなかで、彼らの生き方に感動する部分が多くあったのではないでしょうか。
玉子は16歳で信長の命により細川忠興と結婚。政略結婚ですが忠興の父と光秀は親友でしたので、当時においては幸せな方だったと思います。ところが、幸せな結婚生活はわずか4年で崩れ去ります。光秀が起こした本能寺の変により家族を失い、幼いわが子や夫との別れ、幽閉生活、赤ちゃんの死……。ほとぼりがさめて城に戻ることができたものの、側室の存在を知らされるなど、様々な苦しみが待っています。
玉子には輿入れの時から清原佳代というクリスチャンの娘が侍女として仕えているのですが、その佳代は玉子のことをずっと祈り続けます。ある時玉子が「何と祈るのか」と問うと佳代は「苦難が恩寵と思えるように」と答えます。玉子はすぐにこの苦難が取り除かれた方がいいと言いながらも、「汗が出るほどに祈る」佳代の真実に心を打たれますが、キリスト教にはずっと懐疑的でした。この姿勢、誰かと共通しませんか?
そう、『道ありき』で前川正の言葉をななかなか受け容れられなかった、綾子自身の姿と通じるところがあるのです。
展示では『細川ガラシャ夫人』の執筆の背景など、最初は手をつけられなかった綾子が、どのように玉子の『道ありき』に興味を持ち、描いていったかを紹介していきます。

(1)執筆のウラガワ
─ 綾子が辿った玉子ゆかりの地! 取材旅行のエピソード
(2)玉子と綾子は似ている!?
─ 二人の共通点を探る
(3)光秀はなぜ本能寺の変を起こしたか?
(4)玉子と忠興、光秀と熙子
─ 戦国時代の夫婦、家族のあり方
(5)天下人はいい人、悪い人?
─ 綾子目線の信長・秀吉・家康の人物像

長友あゆみ(学芸員) 三浦綾子記念文学館 館報「みほんりん」第38号 2017(令和29)年3月15日

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