三浦綾子さん(ご夫妻)と私  黒古一夫

そもそも私が三浦綾子さんに深い関心を持つようになったのは、1981年の秋から始まった「文学者の反核運動」(正式名「核戦争の危機を訴える文学者の声明」運動)に、三浦さんが多額の寄付金と共にいち早く署名してくれたことであった。ノーベル賞作家の大江健三郎や小田実、中野孝次らが中心となったこの署名運動を、一番年下の事務局員として手伝っていた私は、『氷点』や『積木の箱』の作家がどういうところから「反核」の思いを抱くようになったのか、いつかその真意を知りたいと思ったのである。
その数年後、最初の『北村透谷論―天空への渇望』(79年刊)に次いで、『小熊秀雄論―たたかう詩人』(82年刊)などを上梓していた私のところに、小熊秀雄研究の関係者から『随想集 幌延1986』(86年刊)が送られてきた。その小冊子を開くと、冒頭に三浦さんの「幌延に高レベル放射性廃棄物の施設が計画されていると聞くが、いくら誘致賛成者が安全だと言っても私は信じない」(要旨)という『ゾッとする話』が載っており、数年前の文学者の反核運動の際に抱いた疑問に得心したのである。
そのようなことがあって、私は1998年7月、ある新聞から依頼された「地域 人 文化」という連載の第1回に三浦さんを取り上げた。編集部がつけた記事のタイトルは、「愛することが人の原点 自然とともに生を尊ぶ」であったが、私は三浦文学の本質を射抜いた適切な見出しだと納得した。

『銃口』での関わりと三浦家でのインタビュー

その後三浦さんが最後の長編『銃口』を小学館のPR誌「本の窓」に連載(1990年1月号~93年8月号 全37回)するようになった折に、奉天市(現瀋陽市)からの引揚者だった「本の窓」の編集長と戦時下の文学や植民地文学に関心を持つようになっていた私が、病躯のため小説の舞台となった中国東北部や朝鮮半島の取材ができなかった三浦さんご夫妻に代わって、参考文献を提供したり、掲載部分の記述の正誤について意見を申し上げたりした。三浦さんは、納得して僕らの意見を尊重してくれた。その真摯な態度に感動した私は、『銃口』が完成した翌年6月、非キリスト者として初の『三浦綾子論―「愛」と「生きる」ことの意味』(小学館刊)を上梓した。
そんな10年ほどの三浦さんとの交友を象徴するのが、1997年11月に行われ、後に『さまざまな愛のかたち』(97年11月 ほるぷ出版刊)となるインタビューである。このインタビューは、三浦邸の客間と居間で2日間にわたって行われたのだが、パーキンソン病が進行しつつあった三浦さんは、光世さんの介助を受けながら、それでも「愛」の大切さや「生きること」の意味を熱っぽく語り、実に感動的であった。今でもあの時の光景が忘れられない。

黒古一夫(文芸評論家) 三浦綾子記念文学館 館報「みほんりん」第39号 2017(平成29)年9月1日

関連記事

  1. 『氷点』と自殺 課題図書『氷点』  金光詩浦

  2. 次代に託す役目を  石川千賀男

  3. いつかまた、この場所で  木下真綾

  4. 風吹く大地の馬と人  河﨑秋子

  5. 私の道 課題図書『道ありき』  豊田花奈

  6. 思いが集まり、力となって  石川千賀男