肋骨の小箱と手紙  森下辰衛

昭和34年、死の病から癒され37歳で結婚した綾子さんは、夫光世さんとの40年の夫婦生活の間に2軒の家を建てましたが、いずれも2階に寝室兼書斎の部屋がありました。その部屋の隅にある小さな棚にはいつも、一つの桐の箱が置かれていました。綾子さんを絶望の淵から救った恩人であり恋人であった前川正の肋骨を納めた箱でした。自身も結核だった前川は綾子さんの療養費を出すため早く治りたいと肋骨八本を切除して肺の大手術をしましたが、そのために死期を早めたのでした。
綾子さんはその箱を抱きかかえて嫁ぎ、光世さんは尊んで迎え入れました。それから四十年間、この一番大事な二階の部屋の隅に、その箱は前川の最後の手紙と共に置かれ続けていました。「命がけで愛し、信仰と文学に導いてくださったあの方を忘れるな」と、夫は言い続け、妻は夫の深く広い愛に感謝し続けました。これが『道ありき』とそれに続く物語の核心であり、綾子さんを生かし書かせた愛なのです。

この三浦文学において、その実人生と執筆の現場である三浦家は、作品そのものに次ぐ最大の遺産と言えるものでしょう。なかでも二階の書斎は三浦夫妻が夫婦として休む寝室でもありましたが、朝には、神の前に共に祈り、午前中は多くの涙と共に口述筆記で執筆をし、午後には全国からの命がけの人生相談に心をこめて返事を書いた部屋であり、多くの病と闘う夫妻がいたわりあった場所でした。夫妻の老老介護の姿は、究極の夫婦愛の一つの形を示してくれるものでした。
この書斎は三浦家の心臓であり、三浦文学のすべてが生れ出る泉でした。

森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員) 三浦綾子記念文学館 館報「みほんりん」第39号 2017(平成29)年9月1日

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