「もしもし、お兄さん? わたしよ。香也子よ」 甘い声を香也子は出す。 「ああ、香也子さんですか。いけませんよ、章子さんのそばで電話をしたりしちゃ」

「もしもし、お兄さん? わたしよ。香也子よ」
甘い声を香也子は出す。
「ああ、香也子さんですか。いけませんよ、章子さんのそばで電話をしたりしちゃ」
「あら、なあぜ?」
「なぜって……困るなあ」
「どうして? お兄さん。わたしね、折りいってご相談したいのよ」
香也子はうしろをふり返った。章子は少し離れて立ったまま香也子を見ていた。
「相談て、何ですか」
「こないだねえ、わたし……これ、誰にも内緒よ」
香也子は声をひそめた。声をひそめても、僅か三、四メートルしか離れていない章子に聞こえぬ筈はない。内緒という言葉に、章子はキッチンに引っこんだ。が、居間とキッチンは、カウンターで仕切られているだけだ。香也子は、その章子に聞かすつもりでいった。
「ねえ、わたしこないだ、ニュー北海ホテルで、お父さんがもとの奥さんと、娘と、三人で食事してるのを見かけたのよ」
香也子が見たのは、恵理子と容一だけなのだ。
「はあ」
困惑した声が返ってきた。
「ねえ、お兄さん、驚いたでしょう。それからわたし悩んでるのよ」
「悩む?」
「だって、それがすごく仲よさそうなの。そりゃあ、もとは夫婦だったから無理もないと思うけど、まるでべたべたなの。いったん別れた夫婦なのに、いやねえ」
「そんなお話、ぼくが聞いても……」
「あら、お兄さん、章子さんのこと、そんなに冷淡に考えてるの」
冷淡という言葉に、香也子は力をいれてみせる。キッチンで身を固くして、香也子の声に耳を傾けている章子の姿を、香也子は感じながら、
「あら、冷淡じゃないって? そうはいわせないわ。だってそうでしょう。もしお父さんが、わたしの母とよりを戻したら、章子さん親子は、この家から追い出されるのよ」
「そんなこと、そこでいっちゃいけません、香也子さん」
「そう、じゃ、どこでお会いしましょう?」
「どこでって……」
あわてる金井に、押しかぶせるように、
「ああ、やっぱり、車の中がいいかもしれないわね。いつかみたいに」
ふくみ笑いをして、
「とにかく、わたしお兄さんしか相談する人がないんですもの。いつがいいかしら」
香也子は、何重もの意味で、その電話を楽しんでいた。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 九」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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