と、その時電話のベルが鳴った。ハッとしたように章子が受話器を取った。
「もしもし、橋宮でございます。あら、政夫さん?」
とりすました声が、急に華やぐ。
「今日はもうお仕事終わったの? ええ……ええ……わたし? 何をしてたと思って?」
ちらっと章子は香也子を見た。
「……え? 政夫さんの好きなパウンドケーキよ。明日お届けするわ。……ええ……ええ」
あとはただ、相槌を打っているだけだ。香也子はパウンドケーキにスモールフォークを突き立てて口にいれた。クルミの香りが口の中にひろがる。
「ハイ……ええ、でも……いえ、それはいいの……ただ、そうはいかない。……え? ……いいえ、香也子さんがいらっしゃるわ」
章子は声をひそめる。
「ハイ、じゃ、またあしたね、おやすみなさい」
切ろうとした時、いつのまにか傍にきていた香也子の手が、さっと受話器を奪った。
三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 九」