と、その時電話のベルが鳴った。ハッとしたように章子が受話器を取った。 「もしもし、橋宮でございます。あら、政夫さん?」

と、その時電話のベルが鳴った。ハッとしたように章子が受話器を取った。
「もしもし、橋宮でございます。あら、政夫さん?」
とりすました声が、急に華やぐ。
「今日はもうお仕事終わったの? ええ……ええ……わたし? 何をしてたと思って?」
ちらっと章子は香也子を見た。
「……え? 政夫さんの好きなパウンドケーキよ。明日お届けするわ。……ええ……ええ」
あとはただ、相槌を打っているだけだ。香也子はパウンドケーキにスモールフォークを突き立てて口にいれた。クルミの香りが口の中にひろがる。
「ハイ……ええ、でも……いえ、それはいいの……ただ、そうはいかない。……え? ……いいえ、香也子さんがいらっしゃるわ」
章子は声をひそめる。
「ハイ、じゃ、またあしたね、おやすみなさい」
切ろうとした時、いつのまにか傍にきていた香也子の手が、さっと受話器を奪った。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 九」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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  1. 「おいしいわ。とってもおいしいわ」 香也子がいった。テーブルの上には、牛肉とピーマンと地物の筍のいため煮、毛蟹を使ったフーヨーハイ、それに容一の好きな八宝菜、酢ブタなどがいっぱいに並べられている。

  2. 西に行けば、道は下って三百メートルほどむこうの柏林に突きあたる。香也子は東にむかって歩いて行く。道端のチモシーが雨にぬれて光っているのが目をひく。角の家の藤がいま盛りで、小さな紫の滝のようだ。

  3. 二月初めのある夕べ、凞子は突如悪寒がしたかと思うと、たちまち高熱を発して床に臥した。

  4. 章子のボーイフレンドの金井政夫を、今日ははじめてわが家に呼んだのだ。

  5. 「素顔のほうがきれいだよ、香也子」 「まさか」 化粧した顔のほうがきれいだと、香也子は信じきっている。

  6. 「どうも、突拍子もない子でねえ。驚いたでしょう、金井君」