今夜も庭つづきの崖の下から蛙の声が賑やかに聞こえてくる。崖下の沢には田んぼがあるのだ。

今夜も庭つづきの崖の下から蛙の声が賑やかに聞こえてくる。崖下の沢には田んぼがあるのだ。
ときどき蛙の声が途切れると、神居古潭に向かう山間の国道を通る自動車の音が遠い山鳴りのように聞こえてくる。十五畳のリビングキッチンに、香也子がひとりテレビを見ていた。容一も扶代も、奥の間に珍しく早く引っこみ、台所で章子がパウンドケーキを焼いている。その香ばしい香りが居間にも漂っている。章子の結婚は十月と決まった。パウンドケーキの香りに、香也子は章子がどんなに幸せな思いでケーキを焼いているかを思った。
「香也子さん、パウンドケーキ召しあがる?」
やがて章子の声がした。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 九」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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  1. 容一がそういったとき、幼い頃、散歩に手を引いてくれた父の手の感触が、ふっと思い出された。

  2. 金井はいま、思いきって橋宮容一に、章子との交際を求めたばかりなのだ。

  3. 「ハ、ぼくは章子さんのいいように」 と、金井は容一のほうに頭をさげた。その金井に香也子が何かいおうとした時、整がいった。

  4. 「帰ってきて、うがいをしたの? 手は?」

  5. 「まあ、きれい!」 思わず恵理子は声をあげた。

  6. 凞子はおそるおそる再び頬に手をやった。絹じゅすのような、曾ての肌理細かな頬とは、似ても似つかぬ手ざわりに、凞子は唇をきっとかんだ。