「そうね、香也ちゃんのいうとおりね。香也ちゃんをひとりおいて、お母さんとわたし、橋宮の家を出てしまったのですものね」 うるんだ恵理子の声が返ってきた。

「そうね、香也ちゃんのいうとおりね。香也ちゃんをひとりおいて、お母さんとわたし、橋宮の家を出てしまったのですものね」
うるんだ恵理子の声が返ってきた。その恵理子を香也子はちらりと見たが、視線を容一に移し、
「お父さん、小母さんや章子さんには内緒なんでしょ」
と、ニヤリとした。にわかに、年輩の女のような分別くさい表情が浮かんだ。
「扶代にか……扶代にはお前、何でもいってあるよ」
容一はつらっとして答えた。
「ほんと?」
と探るように見、
「ここにいままで、もうひとりいたようね」
と、さっきまで保子のいた席を香也子は意味ありげに見た。内心恵理子に近づくことを決意しながら、しかし父親の弱みを衝くことも、香也子は忘れない。
「うん、まあな……」
「どうやら秘密のようね」
「秘密だなんて、お前、何も扶代にかくすことはない。別れてもわしは恵理子の父親だからな。香也子にわからん相談もあるさ」
「そう。じゃ、今日のこと家に帰って話してもいいのね」
口を歪めて小意地のわるい顔をする。
「うん、ま、そんな馬鹿なことは、香也子はしないだろうと思うがね」
「わからないわ。お父さんの出方ひとつよ」
いいながら香也子は、ふたりのやりとりを眺めている恵理子に、ウインクをして見せた。これが香也子の挨拶だった。恵理子は微笑した。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 八」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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  1. 正式に保子と別れてからは、電話はおろか、葉書一枚きたこともない。

  2. イタリヤポプラの下までくると、恵理子はポプラの幹によりかかって、まだ真っ白い大雪山を眺めた。

  3. 「旭山の桜は、もうすっかり散ったでしょうね」 「何をいっているんだよ。一週間も前に散ったんじゃないのかい」

  4. 「ねえ、わたしたち三人は、水入らずよね。血が通っているんですもの。章子さんや小母さんとは、ちがうわよねえ」

  5. 「どうも、突拍子もない子でねえ。驚いたでしょう、金井君」

  6. 金井が、香也子の両頬を手で挟んだ。そしてそっと唇を近づけようとした時だった。うしろで、けたたましくクラクションが鳴った。