ひとしきり話が弾んだあと、保子は時計を見、 「あら、もう二時過ぎよ。急がなければ、おばあちゃんが帰ってくるわ」 「帰ってきたって、いいじゃないか」

ひとしきり話が弾んだあと、保子は時計を見、
「あら、もう二時過ぎよ。急がなければ、おばあちゃんが帰ってくるわ」
「帰ってきたって、いいじゃないか」
「そうはいきませんわよ。今日外出するって、いってなかったんですもの」
「断らなきゃ、外出もできないのかい」
「そうじゃないけれど……おばあちゃんの出かける時に、外出するともいわないで、二人で出てきたんですもの。あなたに会ったんじゃないんなら、平気ですけどねえ」
「相変わらずだね、おばあちゃんは、おれをすっかり毛嫌いしてるんだな」
「仕方がありませんわ」
「じゃ、なんだ、保子だけ先に帰りなさい。せっかく何年ぶりで会ったんだ、おれはもう少しゆっくりしたいよ」
いいながら容一は、札入れから一万円札を二枚出し、
「ハイヤー代だ」
と、保子に渡した。保子は無造作に、
「ありがとう、いつも」
といい、そそくさと立ちあがった。
女らしい歩き方で去って行く保子を見まもりながら、恵理子は、母がすでに幾度も父と会っていたのだと思った。が、それを咎める気持ちは恵理子にはなかった。
「お父さん、わたし、香也ちゃんに会いたいわ」
恵理子はまっすぐに容一を見た。その時、容一の表情がハッと変わった。
容一は立ちあがった。恵理子がふり返ると、入り口のほうから香也子がはいってくるのが見えた。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 七」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 金井はいま、思いきって橋宮容一に、章子との交際を求めたばかりなのだ。

  2. 車はいつのまにか、高砂台から観音台につづく、馬の背に似た丘の尾根を走っていた。

  3. 「旭山の桜は、もうすっかり散ったでしょうね」 「何をいっているんだよ。一週間も前に散ったんじゃないのかい」

  4. 「そうね、香也ちゃんのいうとおりね。香也ちゃんをひとりおいて、お母さんとわたし、橋宮の家を出てしまったのですものね」 うるんだ恵理子の声が返ってきた。

  5. 「ああ、ああ、いつきてもいい丘だなあ、ここは。こぶしほころび、桜咲きか……」

  6. 西に行けば、道は下って三百メートルほどむこうの柏林に突きあたる。香也子は東にむかって歩いて行く。道端のチモシーが雨にぬれて光っているのが目をひく。角の家の藤がいま盛りで、小さな紫の滝のようだ。