ひとしきり話が弾んだあと、保子は時計を見、 「あら、もう二時過ぎよ。急がなければ、おばあちゃんが帰ってくるわ」 「帰ってきたって、いいじゃないか」

ひとしきり話が弾んだあと、保子は時計を見、
「あら、もう二時過ぎよ。急がなければ、おばあちゃんが帰ってくるわ」
「帰ってきたって、いいじゃないか」
「そうはいきませんわよ。今日外出するって、いってなかったんですもの」
「断らなきゃ、外出もできないのかい」
「そうじゃないけれど……おばあちゃんの出かける時に、外出するともいわないで、二人で出てきたんですもの。あなたに会ったんじゃないんなら、平気ですけどねえ」
「相変わらずだね、おばあちゃんは、おれをすっかり毛嫌いしてるんだな」
「仕方がありませんわ」
「じゃ、なんだ、保子だけ先に帰りなさい。せっかく何年ぶりで会ったんだ、おれはもう少しゆっくりしたいよ」
いいながら容一は、札入れから一万円札を二枚出し、
「ハイヤー代だ」
と、保子に渡した。保子は無造作に、
「ありがとう、いつも」
といい、そそくさと立ちあがった。
女らしい歩き方で去って行く保子を見まもりながら、恵理子は、母がすでに幾度も父と会っていたのだと思った。が、それを咎める気持ちは恵理子にはなかった。
「お父さん、わたし、香也ちゃんに会いたいわ」
恵理子はまっすぐに容一を見た。その時、容一の表情がハッと変わった。
容一は立ちあがった。恵理子がふり返ると、入り口のほうから香也子がはいってくるのが見えた。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 七」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. テレビの中では、若い女性が海べに立って、去って行く男の姿を見つめている。

  2. 「混むかねえ、この天気だと」

  3. が、近ごろは、なぜか時おり父がふと懐かしくなる。

  4. 「ハ、ぼくは章子さんのいいように」 と、金井は容一のほうに頭をさげた。その金井に香也子が何かいおうとした時、整がいった。

  5. 容一がそういったとき、幼い頃、散歩に手を引いてくれた父の手の感触が、ふっと思い出された。

  6. 恵理子の立つ、川一つ隔てたこの道には、