「でも、あなた、恵理子はもうそろそろ結婚する齢ですよ。お店なんか持っていては、結婚の邪魔になりますわ」

「でも、あなた、恵理子はもうそろそろ結婚する齢ですよ。お店なんか持っていては、結婚の邪魔になりますわ」
保子は外に働いたことはない。橋宮容一に嫁ぐ前も、ツネに手伝ってお茶をしていただけだ。
「なるほど、結婚か。しかし、店なら結婚してもつづけられるだろう。な、恵理子」
「そう思いますけど……」
「恵理子には、ボーイフレンドがいるのかい」
「いいえ」
はにかんで答える恵理子の胸の中に、まだ名も知らぬあの青年の姿が浮かんだ。
「なに? いない? ほんとかね」
「ほんとうよ、お父さん」
お父さんという言葉が、すらりと出た。何と懐かしい言葉だろう。
はじめてお父さんと呼ばれて、容一の相好は大きく崩れた。容一は、もしかしたら、恵理子はこの自分を、生涯父と呼ぶまいと決意しているのではないか、それほどに憎んでいるのではないかと、内心恐れていたのだ。
「それは信じられん」
「でもね、あなた、恵理子は家の中から外には出ませんもの、洋裁をするか、お茶の稽古をするか、それだけでしょう? ですから、ボーイフレンドなんかできる暇など、ありませんわ」
「それは残酷だ。大変な無菌家庭だ。なあ恵理子」
と、体を前に乗り出し、声をあげて笑った。恵理子も笑った。潔癖な保子は、暇さえあれば、家の中を拭き清めている。靴のちりも、ていねいにぬぐわなければ、一歩も家の中にいれない。そのことをも含めて、半分冗談めかしていったのだ。保子はそれには気づかず、
「そうねえ、恵理子も年ごろなんだもの……でも、いまにおばあちゃんが、お弟子さんの伝手で、適当な候補者を見つけてくれますよ」

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 七」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. ガラシャ夫人の名を、はじめてわたしが聞いたのはいつの頃であったろうか。

  2. 章子は立ちあがって、 「あ、香也ちゃん、すみません」 と、盆を受けとろうとした。

  3. 章子は再び帯のあたりに手をやった。

  4. 「ねえ、わたしたち三人は、水入らずよね。血が通っているんですもの。章子さんや小母さんとは、ちがうわよねえ」

  5. 容一に手首をぐいぐい引っぱられて、何十メートルか、斜面を降りた扶代と章子は、あっけにとられていた。

  6. ツネの眉が、けわしく上がっている。恵理子はふっと、わが祖母ながら、芝居に出てくる小意地の悪い奥女中を見る感じがして、ツネから目をそらせた。