容一がそういったとき、幼い頃、散歩に手を引いてくれた父の手の感触が、ふっと思い出された。

容一がそういったとき、幼い頃、散歩に手を引いてくれた父の手の感触が、ふっと思い出された。それは親たちの離婚によって、父から遠ざかっていった恵理子の心を昔に戻すものであった。父と思えなかった人が、父に思われた。他に女をつくった不潔な男性であった筈だが、いまは血の通う分身に思われた。それは、自分の心の底にかくされた願いをいい当て、それを受けいれてくれたからかもしれない。ともに住んでいる母でさえ、一度もいったことのない自分の夢を、この父は、遠くに住んでいながら、わかってくれた。そんな思いだった。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 七」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 二人は顔を見合わせて、椅子に腰をおろした。 「これで第一関門はパスしたようだね」

  2. 正客への茶を点て終って、恵理子はいま、次の客への茶を点て終っていた。

  3. 香也子は父の手をふり払って、ふくさをつけている和服姿の中年の女にいった。

  4. 若葉となったポプラの木立越しに向こう岸を見た恵理子は、淡い失望を感じて再びミシンの前にすわった。

  5. 「香也子よ!」 保子は母のツネにささやいた。

  6. 「大変な人ねえ」 扶代が楽しげにいった。