ふっと恵理子は時計を見た。もう十二時半だ。川向こうを見る。やはり青年はきていない。と、その時、
「恵理子、お電話よ」
と呼ぶ、母の保子の声がした。恵理子は針を針さしに刺して、部屋を出た。下に降り、
「どなたから?」
と尋ねたが、
「ま、出てごらんなさいよ」
と、保子は意味ありげに笑った。今日は木曜日で、ツネの出稽古の日だ。何となく、恵理子は青年の顔を思い浮かべて、受話器をとった。
「もしもし、あのう、恵理子ですけれど」
「おお、恵理子かね。わたしだよ。わかるかね」
やわらかい中年の男の声だった。恵理子は一瞬息をのんでから、
「わかります」
と、低く答えた。「お父さん」と呼んでいいものか、悪いものか、うしろにいる母の保子を思うと、恵理子にはわからなかった。
「おお、わかったか。覚えていてくれたかね、お父さんの声を」
懐かしそうな橋宮容一の声だった。
「ハイ」
恵理子はやはり、母が気になって何もいえなかった。
三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 六」