恵理子は器用に、スーツの裾をまつっていく。驚くほどの早さであり、驚くほどのうまさである。グリーンのこのスーツの主は、高校時代の友人だ。

恵理子は器用に、スーツの裾をまつっていく。驚くほどの早さであり、驚くほどのうまさである。グリーンのこのスーツの主は、高校時代の友人だ。薬局を営むその父を手伝っていた友人も、今月の末には結婚する。相手は、父と同じ薬剤師だという。
(幸せであってほしい)
恵理子は痛切にそう思う。決して、母や祖母のような結婚生活になってほしくないと思う。恵理子は人から頼まれたものを縫う時、いつも持ち主の幸せを祈る思いで鋏をいれるのだ。結婚と聞くと、その思いがさらに強くなる。みんなが幸せになる時、自分も幸せになるのだと、高校時代から、恵理子は固く信じてきた。それは父母の離婚という不幸によって、自分もまた不幸にまきこまれたような気がするからかもしれない。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 六」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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