「そんなこといったって……」 「ね、お兄さん。わたし、結婚してもらわなくてもいいの。ただ一度だけ、キスをしてほしいの。ただ、それだけなの」

「そんなこといったって……」
「ね、お兄さん。わたし、結婚してもらわなくてもいいの。ただ一度だけ、キスをしてほしいの。ただ、それだけなの」
香也子の目から、涙があふれ落ちた。
「香也子さん! じゃ、君は、ほんとうにぼくを……」
金井は、香也子の両肩に手を置いて、香也子の顔を見つめた。香也子はこっくりとうなずいた。すがりつくような必死なまなざしだった。
「君が本気なら……ぼくも考えてみる。しかし、考えても君の思うとおりになるかどうか、わからないよ」
再び香也子はうなずいた。
「ぼくにとっては、章子さんのような人がふさわしいと思っていたけど……」
香也子の肩をおさえる手に力がはいった。
「わたし、章子さんの幸せをこわしたくはないわ。ただ、わたしの気持ちをわかってほしかったの。はじめて会った時から、わたし、何か大変なことになりそうな気がしていたの」
弱々しく香也子はいった。
「初めて会ったときから?」
「人を好きになるのに、時間は要らないわ。ひと目で好きになるわ。でも、今日まで我慢していたの。だけど、章子さんが一所懸命に、あなたのためにお料理を作っている姿を見ていたら、わたし、耐えられなくなってしまったの。だから、外に出てあなたの車を待っていたのよ」
またもや香也子の目から、涙があふれた。
「じゃ、君はあそこでぼくを待っていたの」
「そうよ、偶然じゃなかったのよ」
「そうだったのか」
「だから、わたし、ただキスだけしてもらえれば、それで諦めようと思ってるの」
「君って、見た目より、ずっと純情なんだね」

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 四」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 「いつかねえ、旭山で恵理子のきもの姿を見たよ。いい娘になったね」 「…………」 「どうだね、一度お父さんと食事でもしないかね」 「……ハイ……でも」

  2. 恵理子と別れたのは、香也子が十歳のときだった。

  3. 容一が保子の潔癖性に手を焼いたのは事実だった。

  4. 義父の容一にニヤリと笑われて、章子は耳まで真っ赤にした。

  5. 「茶道教授 藤戸ツネ」と書いた看板

  6. 神社の下の大きな桜の木の下に、赤い毛氈が敷かれ、野点が催されていた。