「ね、お兄さん、わたしにもキスをして」 「えっ?」 金井は思わず口からタバコを離した。

「ね、お兄さん、わたしにもキスをして」
「えっ?」
金井は思わず口からタバコを離した。
「章子さんには恋人のキス、わたしには妹のキス」
香也子はニッコリと笑った。ひどく愛らしい笑顔だった。目がキラキラと輝いている。
「困ったお嬢さんだなあ、君は。君はねえ、いままでそうやって、いろんな人にキスをしてもらったの」
金井は皮肉な語調でいった。
「まあひどい! わたし、キスなんか、まだ一度もされたことないわよ。わたし、お兄さんだからしてほしいのよ。きょうだいのしるしに」
「香也子さんねえ、君にもし好きな人ができた時、その時に、とにかく生まれてはじめてのキスを受けたらいいよ」
金井はタバコを灰受けに入れ、ハンドルに手をおいた。その手を、
「待って」
と、香也子はおさえた。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 四」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 正門は重々しい鉄柵の門扉に閉ざされ、

  2. 炎を見つめながら、恵理子はそのとき、そんなことを思っていた。

  3. 「香也ちゃん」 たった一人の妹の名を、恵理子はそっと呼んでみる。

  4. 「おとなしいところがいいんだろう。ところで、お前もお茶でも習ったらどうだ」 容一はようやく、いいたかったことをきりだした。

  5. 香也子は再び視線を姉の恵理子に戻した。

  6. と、その時電話のベルが鳴った。ハッとしたように章子が受話器を取った。 「もしもし、橋宮でございます。あら、政夫さん?」