近づいてきた金井は、小さくクラクションを鳴らした。驚いたように香也子は目を見張り、車から顔を出した金井政夫をみつめた。

近づいてきた金井は、小さくクラクションを鳴らした。驚いたように香也子は目を見張り、車から顔を出した金井政夫をみつめた。
「あら、金井さん、もういらしたの」
「早かったかなあ」
金井は時計を見た。
「早いわよ。章子さん、いまお料理にとりかかったばかりよ。今日は中華料理を作るんですって。一時間は早いわよ」
「そうか。だけど、五時にくるっていう約束だったんだけどなあ」
「じゃ、ちょっとの間わたしと観音台のほうにでも行ってみない?」
傘をすぼめ、香也子はすばやく助手台のドアをあけた。
「ああ、そうしますか」
金井政夫はうなずいた。ドアがしまった。車は方向を変えた。
「ああ、うれしい。わたし、金井さんと一度ドライブしてみたかったのよ」
「え?」
「だって、わたし、金井さんがお兄さんのような気がするんですもの。章子さんとわたしは姉妹だから、章子さんと結婚する金井さんはお兄さんということよね」
あどけなく笑って、香也子は軽く頭を金井の肩にもたせかけた。香也子の態度が無邪気なので、金井は咎めるわけにもいかない。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 三」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 「もしもし、お兄さん? わたしよ。香也子よ」 甘い声を香也子は出す。 「ああ、香也子さんですか。いけませんよ、章子さんのそばで電話をしたりしちゃ」

  2. いつも家の中で洋裁をするか、祖母のお茶の稽古の手伝いをするだけの恵理子の生活は、ほとんど異性に接する機会のない生活だった。

  3. 恵理子の立つ、川一つ隔てたこの道には、

  4. が、近ごろは、なぜか時おり父がふと懐かしくなる。

  5. 「ああ、お父さんだ」 のんびりとした容一の声がした。

  6. 物語を〈聴く〉という、発見  田中綾