出稽古から帰ってきたツネのきものを、保子はたたみながら、 「ねえ、お母さん」 と、顔を向けずにいう。

出稽古から帰ってきたツネのきものを、保子はたたみながら、
「ねえ、お母さん」
と、顔を向けずにいう。
この幾日か、保子はいいだす機会を狙っていた。下手にいいだしてはツネの機嫌をそこなう。ツネはふだん話のわかるほうだが、こと橋宮容一に対しては、かたくななほどにきびしい。
「なんだね。あ、これ島崎さんで、またいただいてきたよ」
きものを着替えて、文机の上においた小さな風呂敷包をあごで示す。その傍に、長谷川一夫のブロマイドがニッコリと笑っている。
「なんでしょう?」
「筋子だよ」
「まあ、いつもお高いものを……」
「あの奥さんは、気前がいいんだよ」
保子はビニール袋にはいった筋子を冷蔵庫にいれながら、話の腰を折られたような気がした。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 二」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. ふだん香也子は、保子や恵理子の顔など、二度と見たくないといっている。

  2. 「そんなこといったって……」 「ね、お兄さん。わたし、結婚してもらわなくてもいいの。ただ一度だけ、キスをしてほしいの。ただ、それだけなの」

  3. 八歳のころから、母が家を出て行くまでの二年ほど、香也子は祖母のツネに茶を習ったことがある。

  4. 西に行けば、道は下って三百メートルほどむこうの柏林に突きあたる。香也子は東にむかって歩いて行く。道端のチモシーが雨にぬれて光っているのが目をひく。角の家の藤がいま盛りで、小さな紫の滝のようだ。

  5. 中学に入学するとき、恵理子はセーラー服をつくってもらった。

  6. 「お母さん、ただいま」 「あら、帰ってきたの」