出稽古から帰ってきたツネのきものを、保子はたたみながら、 「ねえ、お母さん」 と、顔を向けずにいう。

出稽古から帰ってきたツネのきものを、保子はたたみながら、
「ねえ、お母さん」
と、顔を向けずにいう。
この幾日か、保子はいいだす機会を狙っていた。下手にいいだしてはツネの機嫌をそこなう。ツネはふだん話のわかるほうだが、こと橋宮容一に対しては、かたくななほどにきびしい。
「なんだね。あ、これ島崎さんで、またいただいてきたよ」
きものを着替えて、文机の上においた小さな風呂敷包をあごで示す。その傍に、長谷川一夫のブロマイドがニッコリと笑っている。
「なんでしょう?」
「筋子だよ」
「まあ、いつもお高いものを……」
「あの奥さんは、気前がいいんだよ」
保子はビニール袋にはいった筋子を冷蔵庫にいれながら、話の腰を折られたような気がした。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 二」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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  4. ふっと恵理子は時計を見た。もう十二時半だ。川向こうを見る。やはり青年はきていない。と、その時、「恵理子、お電話よ」 と呼ぶ、母の保子の声がした。

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