「おとなしいところがいいんだろう。ところで、お前もお茶でも習ったらどうだ」 容一はようやく、いいたかったことをきりだした。

「おとなしいところがいいんだろう。ところで、お前もお茶でも習ったらどうだ」
容一はようやく、いいたかったことをきりだした。
「お茶? そうね、悪くないわね」
香也子は、野点で亭主をつとめていた姉の恵理子の姿を思い浮かべた。
「そうか、習うか。じゃ、藤戸のおばあちゃんのところへでも習いに行ったらどうかね?」
「藤戸の?」
探るように鏡の中から容一を見、
「いやよ、あそこなんか」
切り捨てるようにいう。
「しかしお前、このあいだ、野点に行ったじゃないか。おばあちゃんの茶会だと知って行ったんだろう」
「…………」
「お前だって、たまにはお母さんや恵理子に会いたいんだろう?」
「冗談じゃないわ。会いたくなんかないわ」
「そう強情を張るなよ。お母さんはね、いつでもきてくれって、いっていたよ」
「あら、お母さんに会ったの? そう、お父さん、お母さんに未練が出てきたのね」
「馬鹿をいえ、馬鹿を」
「わかったわ、自分が未練が出たものだから、わたしをダシに使おうと思って……いいわよ。使われてあげてもいいわよ」
「馬鹿をいいなさい」
「お母さんと、もとに戻れば、章子さんたちはこの家を出て行くかもしれないわね」
香也子は小気味よさそうに高笑いをした。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 一」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 「まあ、すてき!」 崖ぶちのあずまやにはいった香也子が叫んだ。

  2. 母が父と別れたのは、父に女ができたからだと聞かされていた。

  3. 家人たちが騎馬のけいこをしているのであろう。土塀の外を大声で笑いながら、二、三騎駈けて行く音がした。

  4. 恵理子は焼却炉のそばを離れたかったが、燃えつきるまでそばについているように、常々保子からいわれている。

  5. 二人はいつしか頂上に出た。頂上にはテレビ塔があった。

  6. そのときも、恵理子は焼却炉にゴミを捨て、いつものようにマッチで火をつけた。