「ああ、お父さんだ」 のんびりとした容一の声がした。

「ああ、お父さんだ」
のんびりとした容一の声がした。
「お父さん? 仕方がないわねえ」
立って行って、香也子はドアを開けた。紺のウールのきものを着流した容一が、パイプをくわえたままはいってきた。
「何だ。まだ起きたばかりか」
容一は、机の前の椅子に腰をおろす。
「ずっと前から起きてるわよ。お父さん今日会社に行かないの」
「日曜だよ、今日は」
容一にも、素顔の香也子は珍しい。
「あら、日曜日。そうね、そうだったわね」
勤めをもたない香也子は、時々曜日がわからなくなる。それでも、水曜日と金曜日のピアノの練習日だけは覚えているからふしぎだ。香也子は父にはかまわず、すぐにまた鏡に向かって乳液をつけはじめた。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 一」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 人々の視線は、再び茶席に戻っている。

  2. 「あら、そう。まだ恋人ってわけじゃないの。そうなの」

  3. 整は今日、章子からの電話を受けて、金井の相伴にやってきたのだった。整の車がバス通りを下って行った時、香也子が金井の車に乗るのを見かけた。

  4. 「どうした。コーヒーを飲まないのかい」

  5. 香也子が先に立ち、橋宮容一と妻の扶代、そしてその娘の章子があとにつづく。

  6. 正客への茶を点て終って、恵理子はいま、次の客への茶を点て終っていた。