「ああ、お父さんだ」
のんびりとした容一の声がした。
「お父さん? 仕方がないわねえ」
立って行って、香也子はドアを開けた。紺のウールのきものを着流した容一が、パイプをくわえたままはいってきた。
「何だ。まだ起きたばかりか」
容一は、机の前の椅子に腰をおろす。
「ずっと前から起きてるわよ。お父さん今日会社に行かないの」
「日曜だよ、今日は」
容一にも、素顔の香也子は珍しい。
「あら、日曜日。そうね、そうだったわね」
勤めをもたない香也子は、時々曜日がわからなくなる。それでも、水曜日と金曜日のピアノの練習日だけは覚えているからふしぎだ。香也子は父にはかまわず、すぐにまた鏡に向かって乳液をつけはじめた。
三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 一」