クレンジングクリームをガーゼでぬぐい、化粧水をふくませた脱脂綿でごしごし拭いている時、ドアをノックする音が聞こえた。たちまち香也子の眉がぴりりと上がった。
「誰?」
咎める声だ。化粧を落とした顔を扶代や章子には見せたくないのだ。香也子は、幼い時に聞いた白雪姫の話の中で、もっとも心をうたれたのは、白雪姫のまま母が、鏡に向かって、
「鏡や、鏡や、世界のうちでいちばん美しいのは誰?」
と、尋ねる言葉だった。香也子もそんな思いで、いつも自分の顔を鏡に見ているのだ。他人に素顔を見せるくらいなら死にたいほどなのだ。
三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 一」