曇った空の下に、郭公の声がしきりにする。 もう十時だというのに、香也子はネグリジェのまま、一時間も前から三面鏡に向かって化粧していた。

曇った空の下に、郭公の声がしきりにする。
もう十時だというのに、香也子はネグリジェのまま、一時間も前から三面鏡に向かって化粧していた。部屋の片隅のベッドが、三面鏡の二枚に写っていて、ベッドが二つあるように見える。ベッドの枕もとの壁に飾られた、こうもり傘をさした山羊の絵も二枚に写っている。シャガールの複製だ。
香也子のまうしろの窓が三面に写って、三方から、新緑の山がおしよせ、いかにもみどりに囲まれている感じだ。
三面の左の一枚には、犬、猫、熊などが人形棚にひしめいている。その他、馬や、鹿、ペンギンなど、人をかたどった人形はひとつもない。香也子は、自分より愛らしいもの、自分より美しいものが嫌いなのだ。それがたとえ人形であっても、人の形をしている時、香也子の熾烈な嫉妬心は、人形でさえその存在を許さないのだ。

三浦綾子『果て遠き丘』「影法師 一」

『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. この道はめったに車は通らない。景色はいいが、あまり人に知られていない道なのだ。 「わたしねえ、こんな静かなところが好きなの」

  2. 車は次第に旭山に近づく。

  3. 「帰ってきて、うがいをしたの? 手は?」

  4. 「いつかねえ、旭山で恵理子のきもの姿を見たよ。いい娘になったね」 「…………」 「どうだね、一度お父さんと食事でもしないかね」 「……ハイ……でも」

  5. 「ね、あなた、高砂台はあのあたりかしら」

  6. 「素顔のほうがきれいだよ、香也子」 「まさか」 化粧した顔のほうがきれいだと、香也子は信じきっている。