「あのう、お姉さま」 凞子の傍らに八重は腰をおろした。

「あのう、お姉さま」
凞子の傍らに八重は腰をおろした。病状はすっかりおさまり、伝染の危険期は脱したものの、凞子は少し体を離して、
「何でしょう」
「本当は、お姉さまにはまだ内緒だと、お父上さまがおっしゃったのですけれど……」
「何をですか」
「……いいえ、何でもありませぬ」
あわてて八重は、かぶりを横にふった。
「わたくしに内緒のこと?……」
光秀に関することにちがいない。父は遂に破約を申し入れたのではないか。ひと月ののちに迫っている結婚を、そのままずるずるにしておくことは決して出来ないのだ。
「……よいことですのよ。でも、お姉さまは何とおっしゃるでしょうか」
八重は無邪気に凞子を見た。
「さあ? わたくしに内緒のことでしょう。内緒のことにいいようはありません」
「お姉さま、お聞きになりたい?」
よいことと聞けば、知りたくはある。が、今の凞子には、そのよいことさえ知るのは恐ろしくもあった。
「いいえ。内緒のことを伺っては、お父上さまに申し訳がございませんもの」
「でも、お姉さまが黙っていらっしゃれば、教えてさし上げます」
「いいえ、よろしいことよ。お八重、わたくしはお父上さまが仰せになるまで、伺わないことに致します」
「あーら、つまらないこと。わたくしとお父上さまが内緒ごとをしたので、怒っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、怒ってなどおりません」
凞子の目がやさしく微笑した。肌はあばたになっても、その整った目鼻立ちには変りはない。それだけに痘痕は一層痛々しくもあった。

三浦綾子『細川ガラシャ夫人』「痘痕(あばた)」

『細川ガラシャ夫人』新潮文庫

『細川ガラシャ夫人』(上)小学館電子全集

『細川ガラシャ夫人』(下)小学館電子全集

関連記事

  1. と、丘の上に車が現れた。車は真っすぐに香也子のほうに下ってくる。見覚えのある金井政夫の車だ。

  2. 「ここにいることが、よくわかったねえ」 香也子は容一の顔も見ずに、天井から吊りさげられたランタンに目をやって、

  3. 章子は再び帯のあたりに手をやった。

  4. 「そんなこといったって……」 「ね、お兄さん。わたし、結婚してもらわなくてもいいの。ただ一度だけ、キスをしてほしいの。ただ、それだけなの」

  5. クレンジングクリームをガーゼでぬぐい、化粧水をふくませた脱脂綿でごしごし拭いている時、ドアをノックする音が聞こえた。

  6. 二人は顔を見合わせて、椅子に腰をおろした。 「これで第一関門はパスしたようだね」