二月初めのある夕べ、凞子は突如悪寒がしたかと思うと、たちまち高熱を発して床に臥した。最初は悪いはやり風邪かと思ったが、それは恐ろしい疱瘡であった。発熱した翌日、紅斑が顔に手足に出て来たため、医者はすぐに庭の一隅にある離室に移すように命じた。頭痛や腰痛に悩まされ、化膿の痛みにもだえ苦しんだのち、一命だけはとりとめた。が、はじめてその頬に手をやった時の驚きと悲しみはいいようもなかった。顔ばかりか、首にも手にも痘痕は残っていた。父母は神に仏にひたすら祈ったが、痘痕は消えるはずもない。
父、妻木勘解由左衛門範凞は、美濃の豪族土岐氏の出である光秀との良縁を諦めることはできなかった。土岐氏の出であるばかりではない。相手の光秀は、その三歳の時既に、万軍の将たる相がありと、さる僧が驚いたというほどで、十八歳とは思われぬ秀れた人物であったからでもある。
とてもこの顔では、嫁入りさせることはできない。といって、光秀との縁組を取り消すのは惜しい。父の範凞が窮余の一策を案じたのも無理からぬことであった。が、その時、まだ凞子は父の考えを知る筈もなかった。
三浦綾子『細川ガラシャ夫人』「痘痕(あばた)」