「ねえ、今日はそんなのんきな話じゃないのよ」

「ねえ、今日はそんなのんきな話じゃないのよ」
「香也子のことだといったねえ。香也子がどうかしたのかね」
「このあいだ、旭山での野点に、あの子が現れたでしょ。あれは、偶然あそこに来合わせたのかしら」
「香也子があとでいっていたがね、あの朝、新聞の『会と催し』の欄で、野点のことを知ったそうだよ。あいつ何か企んでいたらしいな。しつこく桜を見に行こうって、俺たちを誘い出してね」
「そうですか」
藍色の着物の襟に、形のいいあごをつけ、保子はちょっと考えるふうだったが、
「じゃ、あなたはご存じなくてついていらしたのね」
「当たり前じゃないか。女房子供をつれて、別れたお前の前に現れるほど、俺は神経は太くはないよ」
「そりゃそうですわね。じゃやっぱり、香也子ひとりの気持ちで、あそこへきたというわけね。かわいそうに」
「かわいそう?」
天ぷらが運ばれてきた。えび、なす、ねぎ、ピーマン、椎茸と、おかみは保子の好きなものを記憶していて出してくれた。
「かわいそうっていうのは……どんなことかね」
揚げたての熱い天ぷらをタレに浸しながら、容一は聞いた。
「だって、そうじゃありません? あの子が新聞で、わたしたちの野点を知って、とにかく駆けつけてくれたのよ。ということは、やっぱりわたしや恵理子を、懐かしくてしようがなかったっていうことでしょ」
「そりゃまあそうだろうなあ」

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 十」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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