「少し白髪が……」と、保子はやさしく容一を眺めた。

「少し白髪が……」
と、保子はやさしく容一を眺めた。
挨拶をすませたおかみは、とうに席を立っている。
「お前は変わらないな。恵理子の卒業の時と。いや、ちょっと痩せたかな」
「そうかしら、体重は変わらないのよ」
(そうか、扶代がふとっているから、痩せて見えたのか)
容一は苦笑し、
「十年か、別れて。……早いもんだね」
と、別れた妻を改めて吟味するように眺めた。ある種の女にとっては、十年の月日も変化をもたらさないものだ。以前、この部屋にもこうして、二人で天ぷらを食べに来たことを、容一は思い出した。自分はこの席にすわり、保子はその席にすわっていた。女が、熱いおしぼりとビールを運んできた。保子は酒を飲まないが、ビールなら飲む。係の女は保子と初対面だ。
「きれいな奥さまですね」
いって、女は出て行った。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 十」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

関連記事

  1. 駆けこむように家にはいってから、恵理子は自分の感情の動きにふっと笑い出したくなった。

  2. 香也子が先に立ち、橋宮容一と妻の扶代、そしてその娘の章子があとにつづく。

  3. 「いま、お兄さん、好きな人ができたらって、おっしゃったわね。じゃ、その好きな人がお兄さんだったら、どうするの」 「え?」

  4. 今夜も庭つづきの崖の下から蛙の声が賑やかに聞こえてくる。崖下の沢には田んぼがあるのだ。

  5. 「ここにいることが、よくわかったねえ」 香也子は容一の顔も見ずに、天井から吊りさげられたランタンに目をやって、

  6. 「ご機嫌いかがですかな、香也子嬢」