そんな容一に、保子から電話がきた時、容一はわれにもなく心がゆらいだ。

そんな容一に、保子から電話がきた時、容一はわれにもなく心がゆらいだ。
「珍しいじゃないか。元気か」
「あら、昨日、旭山でわたしたちをごらんになったんでしょう」
保子は、声だけでもなまめかしい。
「いや、昨日は参った。何も知らずに、香也子に無理矢理つれて行かれてな」
「その香也子のことで、ちょっとお話ししたいのよ」
保子はふっと、思いつめるような声になった。容一は、大阪に二、三日出張する用があったので、会う日を今日まで延ばした。保子は外食を嫌う女だ。が、この菊天にだけは、時折容一ときたものだった。おかみの初代が、保子の気性をのみこんで、座布団のカバーは真新しいものをかけて出すし、夏でも冬でも、おしぼりは火傷をしそうな熱いものを出した。ここの天ぷらは、特に保子の口に合う。自分の手で作った刺身でなければ食べない保子も、この店の刺身だけは食べた。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 九」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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