むろん、いまの妻扶代の、善意でのびやかな性格もいい。

むろん、いまの妻扶代の、善意でのびやかな性格もいい。扶代は、保子のように、
「汚いわねえ」
などと、容一をたしなめたことは、一度もなかった。うがいをしなくても、手を洗わなくても、靴下をすぐに脱がなくても、そんなことをいちいち咎めはしなかった。
保子に逃げられたくやしさもあって、容一は、保子の出たあとすぐに扶代を家にいれたのだが、まもなくその扶代にも、気にいらないところが見えてきた。同じ靴下を何日はいていても、扶代は替えてくれようとはしなかったし、床の間の花がとうにしおれていても、気づかないこともあった。風の日など、廊下がザラザラと埃っぽくなっていても、扶代はいっこうに気をつかわなかった。すると妙なことに、容一のほうで、扶代のすることが気になりだしたのだ。
たまたま、台所の床にこぼした水を、扶代が雑巾で拭くのを見た。が、その雑巾を持った手を洗いもせずに、まな板にあるホウレン草を切った。その日、容一はホウレン草に箸をつけなかった。
しかし扶代は、容一がどんなに遅く帰ろうと、不機嫌になったことがない。いつも同じ笑顔で、同じ言葉で迎えてくれる。
はじめのうちはそれが容一をくつろがせた。が、馴れるにつれて、その判で押したような言葉にも笑顔にも、次第に不満を感ずるようになった。
妻に迎えられているという感じがしないのだ。妻である以上、もっと夫の動きに応じた、真実な接し方があってもいいような気がする。そんな不満にもいまは馴れた。馴れた筈だが、時折不満が頭をもたげる。人間は勝手なものだと思う。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 九」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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