橋宮容一は、小料理屋菊天の一室に保子を待っていた。
保子から、思いがけなく電話がきたのは、五日ほど前のことだ。旭山に桜を見に行った翌日だった。
「藤戸さんという女の方からです」
と、秘書の笹ハマ子が電話を取り次いだ時、容一はてっきり、娘の恵理子からだと胸がとどろいた。用事のある時はいつでも電話をかけるように、恵理子に言ったのは、もう五年も前の、恵理子の高校卒業の時であった。恵理子は素直にうなずいたが、以来一度も電話をかけてきたことがない。
恵理子だと思って受話器を取ると、
「もしもし、お久しぶりね」
と、思いがけない保子の声を聞いた。
三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 九」
『果て遠き丘』小学館電子全集