「その、なんだ。敵がいるんだよ、敵が」 「てきですって?」

「その、なんだ。敵がいるんだよ、敵が」
「てきですって?」
扶代はますます不審な顔になる。章子はその母の脇腹をちょっと突ついた。
「何よ、章子」
章子は義父の容一の手前、黙っている。
「これだから、お前という女はありがたいよ。助かるよ俺は」
容一はポケットからタバコを出して、
「香也子にも困ったもんだ。どうも、今朝からしつこく誘うと思ったよ」
「おかげで、きれいな桜を見物できたじゃありませんか」
「桜なんか、吹きとんじゃったよ。扶代、あの茶席はな、香也子のばあさんの席だよ」
「あら、そうでしたの」
さすがに扶代はおどろき、自分の間ぬけさに気づいたように笑った。
「あら、そうでしたのは、ないだろう」
二度と目の前に現れてくれるなと、保子からは厳重にいわれているのだ。
「そうですか。でも、内心は懐かしがっていらっしゃるかもしれませんよ」
「しかし、別れた女房の前に、ぞろぞろつれだって現れるほど、俺も無神経じゃないからね。香也子はいったい、どんなつもりで俺たちをつれ出したのかな」
香也子の心情が容一にもわからない。が、いつも被害者である章子には、香也子の心の動きが手にとるようにわかった。
「それはあなた、きっとおどろかせようというほどのことでしょう。香也ちゃんに悪気はありませんよね、章子」
章子は黙ってうなずいた。本当にこの母は香也子に悪気がないと信じているのだろうか、と章子は思う。いつだって母の扶代は、香也子に悪気はないという。その母の心のありどこそ、章子にはわからない。
「そりゃあ、香也子に悪気があっちゃあ困るが……何しろ突拍子もない子だからね……」
容一はいま見た恵理子と、保子の顔を思い浮かべながらいった。もしもあの保子が、いまの扶代の立場なら、どういっただろう。思いながら容一は、自分のタバコの煙を見つめていた。
その翌日、容一の会社に電話があった。
「藤戸さんという女の方からです」
秘書の笹ハマ子が取り次いだ。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 八」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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