「そうか、ぼくは、あの人は何不自由なく育った幸せな人かと思った。そうか、お父さんがおられなかったのか」

「そうか、ぼくは、あの人は何不自由なく育った幸せな人かと思った。そうか、お父さんがおられなかったのか」
青年は独り言のようにいった。
「でもねえ、姉は幸せよ。祖母と母と、三人水入らずですもの。わたしなんか、二度目の母とそのつれ子に遠慮して生きているんですもの。わたし淋しくって。だから今日だって、せめて顔を見たいと思ってきたのよ。でも、姉だって、母だって、ひとことも言葉をかけてくれないの」
香也子は、自分だけひどく不幸なような口ぶりでいう。
「人間関係って、複雑ですからねえ。しかも、夫婦別れっていうのは、微妙でしょうからねえ」
「あら、あなた、わたしに同情してくださらないのね」
たったいま知り合ったばかりなのに、香也子は恨みがましく青年を見た。
「そんなことありませんよ。ぼくだって、二度目の母どころか、三人の母に育てられていますからねえ」
「あら、ほんと?」
「ほんとですよ。もっとも、三人ともみんないい母だったんですが……やっぱり自分の母って、少々出来が悪くても、気兼ねなくものがいえますからねえ。自分の親よりいいものはないさ」
青年は明るく笑っていった。
「じゃ、わたしと同類項なのね。でも同類項さんの、肝心要のお名前をまだおききしていなかったわ」

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 七」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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