そうかしら。女はただの顔見知りの人に、あんなに顔を赤くはしないわ。

「そうかしら。女はただの顔見知りの人に、あんなに顔を赤くはしないわ。わたし恋人かと思って、それで聞いてほしいことを……失礼しました」
「そりゃあ光栄だな。あんな人の恋人にまちがわれるなんて……。あの人、えり子さんとおっしゃるんですか。どんな字です」
「どんな字だと思って?」
香也子は青年をじらしたい気がした。少し急勾配の坂道を、二人は肩を並べて登って行く。茶席の赤い毛氈が、桜や桂の木の間越しに鮮やかだ。そしてその向こうに、上川盆地が遠く広がっている。青年はその茶席のあたりを見おろしながら、
「恵みに、理知の理かな」
といった。
「あら、ご名答よ。とうにご存じみたい」
「恵理子さんか、あの人らしい名前だな」
張りのある、若々しい声で青年はいった。
「ほんとうかしら。名前もごぞんじなかったなんて?」
「知りませんよ。ぼくはあの人の家のすぐ近所にはいますがねえ、彼女が藤戸という姓だとしか知らなかったんですよ」
「そう、ご近所なの?」
「そうです。で、君はほんとうに、あの人の妹さんなの」
「そうよ。でもね、姉と母は、わたしを置いて家を出たのよ」
青年は黙って香也子の顔を見た。初対面の自分にいう言葉ではないと思った。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 七」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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