正客への茶を点て終って、恵理子はいま、次の客への茶を点て終っていた。恵理子は動揺していた。まだ名も知らぬあの青年が、わざわざ茶会にきてくれた。恵理子はいい難いときめきのうちに、茶筅を軽く動かしている。泡立った薄茶を恵理子は差し出し、静かに一礼した。そしてその目を香也子にあてた。
はっと、恵理子の姿勢が崩れた。思わず片手をつき、あわてて膝に手を置いた。
「ちょうだいいたします」
恵理子の驚きを、香也子は満足げに見て茶碗を両手に持った。折から風が吹き、桜の花びらが緋毛氈の上に散った。
三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 七」
『果て遠き丘』小学館電子全集