「わたし、香也子です。よろしく」

「わたし、香也子です。よろしく」
香也子は、父の容一のすぐ傍に腰をおろして、
「お父さん、わたし、金井さんにどこかでお会いしたような気がするの。どこだったかしら」
と、頭をかしげた。
「そうですか。ぼくはあなたには、全くはじめてお会いしますが」
金井はちょっととまどったように香也子から章子に視線を移した。
「そりゃそうよ。現実にお会いしたのは、はじめてですもの。でも、わたし、あなたにお会いしたことがあるわ。何かの小説の中よ。あなたのような、素敵な男性がいたわ。ジイドだったかしら、モリアックだったかしら」
そのいい方が、いかにも文学好きの少女のように見えた。金井は微笑した。
「あなたはフランス文学がお好きなんですか」
「ええ、そうよ。金井さんは?」
香也子は再び首を傾けた。それはこの席がどんな席かもわからぬ幼児のようにあどけなく見えた。

三浦綾子『果て遠き丘』「春の日 四」
『果て遠き丘』小学館電子全集

オーディオライブラリー『果て遠き丘』朗読:七瀬真結

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